こんな本を読みました。
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こころの眼
2019年04月25日 (木) 21:16 | 編集
こころの眼―写真をめぐるエセーこころの眼―写真をめぐるエセー
(2007/07/20)
アンリ カルティエ=ブレッソン

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 「こころの眼 写真をめぐるエセー」(アンリ・カルティエ=ブレッソン/岩波書店)読了。

 「決定的瞬間」アンリ・カルティエ=ブレッソンのエッセイ集です。

 書き下ろしではなく、ブレッソンがあちこちに書いたものを纏めたもののようです。

 ブレッソンが写真についてどう考えていたのかを知る手掛かりとして、とても貴重な本でしょう。

 これまで一度として「写真そのもの」に情熱を傾けたことはない。私が愛するのは、自らをも忘れる一瞬のうちに、被写体がもたらす感動と形状の美しさを記録する写真の可能性だ。そこに現れたものが呼びおこす幾何学だ。(p.26)



 私たちの眼はかたときも休まず推測し、予測しなければならない。わずかな膝の屈伸でパースペクティヴを変え、一ミリにも満たない首の動きでいくつもの直線をめぐりあわせ、一致させる。むろんそれは反射神経のスピードで実現する。おかげで私たちは幸いにも「芸術する」ことに、こだわる間もない。構図はシャッターを押すとほぼ同時に構成される。ディテールをどう描くかは、被写体に向けたカメラの引き具合ひとつ。被写体を従わせることもあれば、逆にふりまわされることもある。(p.38-39)



 カメラ・アングルという言葉をしばしば耳にするが、アングル、すなわち角度とは、構図のための幾何学的アングルが唯一存在するのみである。有効なのはそれだけであって、腹這いになったり、きっかいな行動で何らかの効果を得ようとすることがアングルではない。(p.40)



 前半は主に写真についてで、後半が中国、モスクワ、キューバ等の取材話や交友関係の話という構成です。
 
 いろいろと知らなかった話も出てきて、興味深いです。
 彼はジャン・ルノワールの助監督を務めたことがあるのだという。

 彼は私を『ピクニック』の第二助監督に採用してくれた。第一助監督はジャック・ベッケル、研修助監督はルキノ・ヴィスコンティだ。(p.99)




 最後に、カメラ関係の掲示板等でも異常にこだわる人が多い永遠のテーマ、「ピント」について、ブレッソンがどう考えていたのか、面白いので引用します。

 写真技術というと、執拗にピントのことを考える人々がいるのをつねづねおもしろく思っている。生来の凝り性なのか、あるいはトロンプ・ルイユ(実物そっくりのだまし絵)に近づくことで現実を掌握できると考えているのか。そんな人々もまた、画面をぼかすことで芸術性を論じていたべつの世代の人々と同じほど問題の核心から遠いところにいる。(p.44)







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屋根裏プラハ
2012年06月17日 (日) 21:23 | 編集
屋根裏プラハ屋根裏プラハ
(2012/01/31)
田中 長徳

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 「屋根裏プラハ」(田中長徳/新潮社)読了。

 田中長徳氏は写真家です。

 カメラ雑誌の連載記事だけ読むと、カメラのメカ的な側面にしか興味がないオヤジのようにあえて書いているような感がありますが、素晴らしいスナップ写真を撮る人です。

 その田中氏の初めての「純エッセイ集」なのだという。

 雑誌「新潮」に20回連載したものを、加筆のうえ、17編を収めたのが本書です。

 田中氏はプラハにアトリエを構えて20年になるのだそうで、本書はそのプラハでのあれこれで埋め尽くされております。

 プラハといえば、私も写真集を二冊ほど所有しているヨセフ・スデックの街であり、映画「アマデウス」のロケ地としても有名です。
 

 プラハは写真家の楽園である。世界中でこれほど魅力のある都会を知らない。それは巨匠ヨセフ・スデックの仕事が示している。千年の古都を今に歩行して写真を撮影できるのは奇跡のようなものだ。(p.20)



 「純エッセイ集」というだけあって、写真の本ではないのですが、それでも写真について多少は書かれていて、やはりそっちの文章に惹かれてしまいます。

 記念写真。その対義語は何であろう。隠し撮り。これは嫌な言葉だ。ところが実は世界の名作写真は例外なくこの隠し撮り、すなわち「キャンディット・フォト」なのである。 (略) 人物写真には決定的瞬間があるが、風景にはそんなものないのでは? と考える人は写真に対する認識不足である。風景にこそ決定的瞬間があり、そしてむしろ人物撮影より「風景に意識させずにその行動を撮影する」ほうが困難なのだ。(p.91-92)



 あたしは「写真教育不可能論者」でもある。写真は教わって理解できるものではない。学べるのはその方法だけである。その先は誰も教えてくれない。(p.121)


 田中氏は旺盛にブログの更新を行っており、このブログの文章が気に入れば、本書も楽しく読めると思います。
 http://chotoku.cocolog-nifty.com/



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どちらとも言えません
2012年03月01日 (木) 21:52 | 編集
どちらとも言えませんどちらとも言えません
(2011/10)
奥田 英朗

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 「どちらとも言えません」(奥田英朗/文芸春秋)読了。

 直木賞作家、奥田英朗のスポーツエッセイ。

 雑誌「Number」723~775号のうち奇数号、サッカーW杯臨時増刊号1~4号に掲載されたもの。

 ユーモアにまぶされているが、どきりとするような核心をつく指摘を随所にしており、面白いだけでなく、読みごたえ十分です。
 外国と日本の比較が多いという印象です。

 そしてたいてい、だから日本(人)はだめなのだ、というちょっと卑屈というかネガティブな結論になりがち。

 日本人がサッカーが苦手なのは、「順番を守る国民性」に尽きるという話になり、日本以外の大半の国では順番など守らないといい、

 待っている奴には回ってこない。これが世界の常識なのだ。ゆえに、我らはボールの取り合いをする競技がとにかく苦手。ラグビーも、バスケットボールも、ホッケーも全部ダメ。もちろん体格の差もあろうが、それ以前に妨害行為にことのほか弱く、メンタル面で負けちゃっているのである。(p.107)


 …という風にぐんぐん筆が走っていく。

 スポーツの楽しみの一番目は、自分でプレーすること。
 二番目は観戦。
 そして、三番目は語ることだという。

 スポーツは、政治、経済、文化、あらゆる分野に多大な影響を及ぼすが、それは人々をいくらでも語らせる共有感があるからにほかならない。(p.234)






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マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと
2010年11月04日 (木) 22:03 | 編集
マーリー―世界一おバカな犬が教えてくれたこと (ハヤカワ文庫NF)マーリー―世界一おバカな犬が教えてくれたこと (ハヤカワ文庫NF)
(2009/03/05)
ジョン グローガン

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  「マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと」(ジョン・グローガン/ハヤカワ文庫)読了。

 「マーリー」はちょっとおバカなラブラドール・レトリーバー、レゲエのスーパースターにちなんで命名されました。
 新婚のジョンとジェニーが、マーリーを飼い始めてから看取るまでの13年間を綴ったエッセイです。
 全米大ベストセラーで映画化もされました。

 本書の中で著者がマーリーを飼い始めてから調べて知るのですが、ラブラドール・レトリーバーには比較的小さめで従順なイギリス系と、体が大きくエネルギーに満ちたアメリカ系の二系統あり、知らずに買ったとはいえ、どうやらマーリーはアメリカ系だったらしいのです。

 そのアメリカ系のなかでも、体重45キロ超で特別に活発な犬がマーリーだったのですな。
 やらかすことは、犬を飼ったことのある人ならだれにでも心当たりがあるようなこと(リードを引っ張ったり、人間の食べ物をくすねたり、家具をかじったり、口に入るものは何でも食べちゃったり・・・)がほとんどなのですが、体がでかいのと力が強いのとで、通常より被害が甚大になるのでした。

 時は移り、グローガン夫妻は三人の子供に恵まれます。
 おバカなはずのマーリーなのに子どもにはぜったに逆らわないし、赤ちゃんのそばに静かに守るように寄り添うという忠誠心も示します。
 一度退学となったしつけ教室にも再挑戦、見事卒業し、それほどバカでもないような。

 犬のマーリーが主役であることは間違いないのですが、家族の問題、特に著者と妻との間の問題もきちんと描かれていて、著者の文学的決意のようなものも感じ取れる作品となってます。
 単なる馬鹿犬の話を面白おかしく書いただけ、というような浅いものではなく、人と犬との関わり、未熟だった夫婦の成長の物語としてキッチリ成立しています。

 後半、老いて衰えていくマーリーとの触れ合いや、愛犬への思いを綴った文章には、犬を飼ったことのない人ですらほろりとさせられるでしょう。
 犬はその短い寿命で、生まれてから死ぬまでの一生を人間に見せ、命のなんたるかを教えてくれるのだ、といいますが、まさにグローガン家の人々はマーリーからさまざまなことを学ぶのです。

 常識はずれな考えかもしれないけれど、マーリーを失ってみてはじめて、すっかり合点がいったことがある。マーリーは良き師(メンター)だったのだ。教師であり、手本だったのだ。犬が・・・(略)・・・人生において本当に大切なのはなんなのかを、身をもって人間に示すなんて、できるのだろうか? 答えはイエスだと僕は信じている。忠誠心。勇気。献身的愛情。純粋さ。喜び。そしてまた、マーリーは大切でないものも示してくれた。犬は高級車も大邸宅もブランド服も必要としない。ステータスシンボルなど無用だ。びしょぬれの棒切れ一本あれば幸福なのだ。犬は肌の色や宗教や階級ではなく、中身で相手を判断する。金持ちか貧乏か、学歴があるかないか、賢いか愚かか、そんなことは気にしない。こちらが心を開けば、向こうも心を開いてくれる。それは簡単なことなのに、にもかかわらず、人間は犬よりもはるかに賢く高等な生き物でありながら、本当に大切なものとそうでないものとをうまく区別できないでいる。(p.423-424)



 これを読むと自分も犬を飼いたくなるかもしれません。
 なかなかに危険な一冊ともうせましょう。



 映画化されました。
マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと (特別編) [DVD]マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと (特別編) [DVD]
(2010/06/25)
オーウェン・ウィルソン、ジェニファー・アニストン 他

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私とマリオ・ジャコメッリ
2009年07月30日 (木) 22:48 | 編集
私とマリオ・ジャコメッリ―「生」と「死」のあわいを見つめて私とマリオ・ジャコメッリ―「生」と「死」のあわいを見つめて
(2009/05)
辺見 庸

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 「私とマリオ・ジャコメッリ 〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて」(辺見庸/NHK出版)読了。

 本書は、2008年にNHK教育テレビで放送された新日曜美術館の内容を再構成し、大幅に加筆、修正したものだそうです。

 マリオ・ジャコメッリという名前は知らなくても、一度でも見たら忘れられない強烈なイメージのその写真はどこかで目にしたことがあるはず。
 そのジャコメッリの写真について、辺見さんが語るという、これは必読の一冊でしょう。

 さらに、ジャコメッリ芸術を深く理解するために、現代の「映像」全般がはらむ危機や問題点にまで言及されています。
 ジャコメッリがいかに凄いか、他と違うのかを分からせる上で、ジャコメッリ以外の映像についても語らねばならぬということでしょうか。

 ジャコメッリは撮影地を、風俗や文化を記録する場所とは考えず、〈異界〉と見たのではないかという。

 〈異界〉とは内面的な異空間のことだが、東洋的にいえば他界、すなわちあの世ということもできよう。したがって異界を見るとは、いまだ知らぬあの世のデジャ-ヴュ(既視体験)であるかもしれないし、あるいは、私の言葉でいえば〈予知夢〉、だろう。ジャコメッリの映像の森をさまよっていると次第に半覚半醒の心地になり、最後にはたったひとつのことに気づく。これは〈幻夢〉なのであり、ジャコメッリはおのれの〈幻夢〉を撮ったのだ、と。(p.9)



 ひととおりジャコメッリの作品について語ったのち、一旦ジャコメッリからはなれ、資本やメディアについての考察がはじまります。
 現代では映像は資本の潤滑油、あるいは活性剤としての役割をはたしているのだという。

 偶然の発見とおもったことも、資本とメディアによって周到に選ばれ、プログラミングされ、投資され、人為的に仮構され、修正され、デフォルメされた、マーケットと商品流通のための風景であることがほとんどである。(p.77)


 現代とは芸術としての映像とコマーシャルの映像がまったくの等価になり、区別のなくなった時代である。そこでは資本の管理下、どちらも等しく「金銭」に換算される。端的にいえば〈表現は金〉なのである。(p.95)



 ではなぜ、ジャコメッリは「資本」からも「権力」からも自由でありえたのかという「謎」。
 〈表現〉するとはなにかという根源的なテーマを、ジャコメッリの映像はわれわれに突きつけているのだ。


 マリオ・ジャコメッリの撮影した写真に興味がわいたら、写真集が出ています。

マリオ・ジャコメッリ(完全日本語版)マリオ・ジャコメッリ(完全日本語版)
(2009/11/20)
マリオ・ジャコメッリ

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マリオ・ジャコメッリ写真集 <新装版>マリオ・ジャコメッリ写真集 <新装版>
(2013/03/08)
マリオ・ジャコメッリ

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見えない音、聴こえない絵
2009年06月07日 (日) 21:06 | 編集
見えない音、聴こえない絵見えない音、聴こえない絵
(2008/12)
大竹 伸朗

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 「見えない音、聴こえない絵」(大竹伸朗/新潮社)読了。

 2006年、国内最大級の面積を誇る東京都現代美術館の企画展示室全フロアを使用した大回顧展「全景」を開催した画家、大竹伸朗のエッセイ集です。
 月刊誌「新潮」に連載したエッセイをまとめたものだそうです。

 名文、名言の連続で、実に読み応えがありました。
 考えさせられると同時に、いたく感心もし、これは相当に深い本です。
 頭の中に唐突に浮かんだイメージがパッと出てきたかと思うと、妙に論理的な部分もあり、それらが混然一体となって独特の文章が出来上がってます。

 とても読みやすい文章であると、ここは声を大にして言いたいです。
 言語化しづらい事柄を、読みやすい文章になるまで、考えに考えて消化しているっつーのが、伝わってきます。
 ささっと書ける文章じゃありません。

 絵を描きたくない気分の時は気分転換することが一番だといった考えはあまり信じていない。世間に通りのいい理屈はいつもウソ臭い言い訳であることが多い。(p.166)



 十代のある日、トーストにピーナッツ・バターを塗っていると、「目の前の手の上にあるこのトーストは実は絵画ではないのか」と思ったのだという。
 キャンヴァスにパレットナイフで油絵具を塗るのと、トーストにピーナッツ・バターを塗る行為。

 なぜピカソによる絵画は「芸術」であり、自分が心動かされる目の前のトーストはそうではないのか、といった疑問の先に答えはない。ピカソの絵画や一枚のトーストが「芸術」であるかどうかではなく、問題は人それぞれが何を「芸術」と捉えるのかということに核心は行き着く。そしてそんな考えの先には、いつの世も多数決による「常識」というブ厚い壁も同時に立ちはだかる。(p.211)



 僕自身は「写真」についての専門的な常識や知識は何もないが、今でも「写真」と聞くと「魔物」という言葉が浮かぶほど、いまだに掴みきれないもどかしい感覚が続いている。これが一体何なのかはおそらく世界中のどの本にも書かれてはいないのだろう。それは結局自分で探すしかないのだ。(p.241-242)



「全景」公式サイト http://shinroohtake.jp/

毎日放送 情熱大陸 大竹伸朗 http://www.mbs.jp/jounetsu/2007/09_09.shtml
もうひとつの国へ
2009年04月08日 (水) 21:57 | 編集
もうひとつの国へもうひとつの国へ
(2008/09/05)
森山 大道

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 「もうひとつの国へ」(森山大道/朝日新聞出版)読了。

 森山大道のエッセイ集ということで、写真についていろいろ書いてあるのかなと思うと、ちょいと違います。
 味わいのある文章ではありますが、写真を主眼においた文章ではないのです。
 ま、写真家の書いた文なわけで、写真のことが全く出てこないっつーわけじゃないですが。

 最後の最後、あとがきで本書の出生の秘密が明かされ、納得しました。

 一昨年の春さき、一人の編集者が突如ひらっとぼくの目のまえに現われて、かつてアナタが書いたものを集めて本を一冊作りたいのです、という。しかもあろうことか、写真に関すること以外のもので、などともいうのだ。この本をまとめてくれた梅村隆之さんである。(p.300)


 文章とは何の関係も無く、写真が入ってますが、やはり、どの写真も素晴らしいものです。
清張さんと司馬さん
2007年11月04日 (日) 22:06 | 編集
清張さんと司馬さん (文春文庫) 清張さんと司馬さん (文春文庫)
半藤 一利 (2005/10/07)
文藝春秋
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 「清張さんと司馬さん」(半藤一利/文春文庫)読了。

 最近は昭和史をテーマとした著作を数多く執筆されている半藤一利さんですが、元はといえば文藝春秋の編集者だった(専務取締役、同社顧問などを歴任)そうです。
 そして、担当編集者として、松本清張と司馬遼太郎の二人と濃密な交流をし、多くのことを学んだのだという。

 本書はNHK教育「人間講座」のために書かれたテキストを元に、大量の補注と書き下ろし原稿一本、司馬遼太郎のインタビュー原稿二本を加えたものです。
 等身大の二人との作家のエピソードや、作品の比較・分析など、非常に分かりやすい文章で書かれていて、読みやすく面白く、それでいていろいろと考えさせてくれ・・・という、お買い得といいますか、とてもいい本です。
 特にどちらかの作家のファンであれば、必読でありましょう。
 ワシの場合、松本清張は一冊も読んだことがありませんが、司馬遼太郎に関しては、大ファンなのっす。
 一番最初に読んだのは、あれは確か高校時代に「燃えよ剣」・・・。

 読み始める前は、面白エピソードと単なる両作家のヨイショに終始するのではと予想し軽ーく読むつもりだったのですが、其処は半藤さんです、言いたいことは言う。
 特に統帥権問題などで、司馬さんとは昭和史の捉え方に溝があるようです。

 『この国のかたち』で、こうした司馬さんの歴史観察を読んだとき、これじゃ昭和史は書けないんじゃないか、とわたくしは率直に思うようになりました。「統帥参考」をカギにして、複雑怪奇な昭和史の扉を開けるには、相当な無理がある。上から広く俯瞰しようにも、これでは見下ろせる世界は狭すぎる。(p.158-159)



 有名な話ですが、司馬さんのエピソードを一つ引用します。
 「竜馬がゆく」の資料集めを神保町の古書店に依頼したのだそうですが、その時集めた資料がおよそ三千冊、重さにして一トン、金額は昭和三十年代当時で一千万円っだったそうです。
 ちなみに昭和三十五年の半藤さんの月給は二万円ちょっとだったとか。(p.118)

 本書のおかげで松本清張も読んでみたくなりました。


寡黙なる巨人
2007年10月08日 (月) 17:37 | 編集
寡黙なる巨人 寡黙なる巨人
多田 富雄 (2007/07)
集英社

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 「寡黙なる巨人」(多田富雄/集英社)読了。

 著者の多田さんは高名な免疫学者です。
 2001年5月、突然脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、死線を彷徨った後、右半身完全麻痺や、舌や喉の麻痺による摂食障害や言語障害などの後遺症が残ってしまいました。
 本書はその凄まじい闘病記であり、現在の医療問題に対する告発の書でもあります。

 医師である多田さんは冷静に自分の病を分析し、

 私の手足の麻痺が、脳の神経細胞の死によるもので決して元に戻ることがないくらいのことは、良く理解していた。麻痺とともに何かが消え去るのだ。普通の意味で回復なんてあり得ない。(p.40)


 と述べます。
 その上で、過酷なリハビリの結果、ほんの少しでも機能が回復すると、このような考えがひらめくのです。

 もし機能が回復するとしたら、元通りに神経が再生したからではない。それは新たに創り出されるものだ。もし私が声を取り戻して、私の声帯を使って言葉を発したとして、それは私の声だろうか。そうではあるまい。私が一歩を踏み出すとしたら、それは失われた私の足を借りて、何者かが歩き始めるのだ。もし万が一、私の右手が動いて何かを掴むんだとしたら、それは私ではない何者かが掴むのだ。(p.40)

 多田さんは自分の中で新しく生れたその何者かを、本書のタイトルである「寡黙なる巨人」と呼ぶのです。

 新しいものよ、早く目覚めよ。今は弱々しく鈍重だが、彼は無限の可能性を秘めて私の中に胎動しているように感じた。私には、彼が縛られたまま沈黙している巨人のように思われた。(p.41)


 前半のリハビリの過程は、体験したものでなくては書けないリアリティで圧倒されます。
 麻痺や嚥下障害がどれほどの地獄の苦しみであるか、想像を絶するものがあります。
 患者の視点から、現在の医療制度(特に科学的なリハビリのシステム)に対する問題点も深く掘り下げられております。

 後半は、発作後六年間に新聞や雑誌に書いてきた随想をまとめたエッセイ集になってます。
 特に力を入れているのは、2006年に開始された障害者のリハビリを180日に制限する「診療報酬改定」に対する戦いです。

 こうして私の中に生れた「巨人」は、いつの間にか、政府と渡り合うまで育ってくれた。死ぬことばかり考えて、生きるのを恐れていたころとは違う。今は何も恐れるものはない。(p.242)


 健康に生きているだけでも幸せなのに、日々、不平不満ばかりの自分を深く反省しました。
言葉の力、生きる力
2006年09月08日 (金) 22:13 | 編集
言葉の力、生きる力 言葉の力、生きる力
柳田 邦男 (2005/06)
新潮社

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 「言葉の力、生きる力」(柳田邦男/新潮文庫)読了。

 文庫の背表紙には、その本の解説とまではいかないが、要約というか紹介文が載っているじゃないですか。
 ざっと読んで、柳田さんによる本の解説とか紹介、つまりブックレヴューのような内容だと思い込んでしまい、購入したのですが、だいぶ違ってました。
 確かに、本の紹介も少なからず載ってはいましたが。

 あとがきによると、2000年から01年にかけて執筆したエッセイをまとめたものだそうっす。

 末期ガン患者に対するケア等の医療問題、現代の言葉の危機、この本を手に取らなければ多分真剣に考えることがなかったであろうことがらが取り上げられていて、有意義でした。

 日本が何かおかしい、根本的に日本人が壊れつつあるという、一つ前に読んだ「国家の品格」にも通じるテーマは、特に最近よく目にするようになりました。
 ここがおかしい、こんな変な出来事に出会ったという指摘はいくらでも出来るのですが、じゃあ解決策はというと、どーにもつかみ所がなく、どうしたらいいか分からないまま、事態がどんどん悪化してゆく現代社会。

 とりあえず「国語」を何とかせいってのが多くの一致した意見じゃなかろうか。
 柳田さんも本書の冒頭で、「言葉の危機は、心の危機であり文化の危機だ。」と書いています。

 柳田さんは読みたいとは思っていたのですが、著作が多すぎて何から手をつけてよいか分からないという状態でいままで来てしまって、最初に読んだのがこの本でした。
 基本的な考え方とか、世の中に対するスタンスなどが分かり良かったです。
 あとがきで、本書の後に書いた『「人生の答」の出し方』と『壊れる日本人』の二著をあわせて読んで欲しいと書いてあるので、そのうち読んでみようと思います。
女王陛下のロンドン
2005年07月08日 (金) 22:37 | 編集
女王陛下のロンドン (講談社文庫)女王陛下のロンドン (講談社文庫)
(2002/05)
ハービー山口

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女王陛下のロンドン」(ハービー・山口/講談社文庫)読了。
 昨日の時点ではもっとかかるかと思っていたのですが、読み終わってしまいました。

 素晴らしい写真を発表し続けている、写真家ハービー・山口氏のエッセイ集です。
 23歳で単身ロンドンに渡り、半年のつもりが8年住み続けて、写真家になる夢をかなえたハービーさん。
 ロンドン時代と日本に帰ってきてからの、様々な人々との交流が綴られてます。


 
『すでに二十三歳になってしまった僕だが、この今が、手に入れることのできる自分の一番若い瞬間だ。明日はもう今日より、一日年をとってしまう。』(p.20)



 自分の弱さや劣等感を隠さない姿勢が立派。
 やはり、表現者ってのは、このくらい自分を曝け出さないと駄目なんだよなー。
 それと、励ましてくれた人やチャンスを与えてくれた人たちへの、感謝のことばの数々。
 ハービー氏の暖かくやさしい写真の秘密が分かった!っつー感じだ。

 有名人がゴロゴロ出てきて、驚きますが、決して仕事だけの付き合いで終わらせてないってのが凄い。
 人徳というのでしょうか。

 写真も随所に挿入されて見応えがあります。
 文章も上手くて、写真と文章が渾然一体となり、その場の情景が目に浮かぶようです。
スターと私の映会話
2003年11月04日 (火) 22:16 | 編集
スターと私の映会話! (集英社文庫)スターと私の映会話! (集英社文庫)
(2003/08/20)
戸田 奈津子

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 「スターと私の映会話!」(戸田奈津子/集英社文庫)読了。

 映画字幕のあの戸田奈津子さんの著書です。

 映画の中の台詞から生きた英語を学ぼうという内容で、戸田さんとスターの交流とか、実際に目撃したスターの素顔などを巧く盛り込んであり、内容がお硬くなく、おもしろかった。

 しかし、読んでいるときは「ああ、なるほど!」と思いますが、なかなか暗記できるものではないですな。
 英語を勉強中の人には役立つでありましょう。

 それにしても、未見の映画の内容がそうとう深いとこまでバラされている箇所があり、もう少し慎重に書いて欲しいのだ。
 読者はみんな映画好きで、もうすでに観ているのだろうという前提で書かれておるのかなー?
 あまり内容を知りたくない映画の部分は飛ばすのがよろしいかもしれません。
半眼訥訥
2003年04月05日 (土) 22:31 | 編集
半眼訥訥 (文春文庫)半眼訥訥 (文春文庫)
(2003/02)
高村 薫

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 「半眼訥訥」(高村薫/文春文庫)読了。
 高村さんが今までさまざまな新聞や雑誌に書いてきた雑文をまとめたもの。
 初の雑文集だという。

 実に保守的っつーかお堅い考え方が目白押しで、時代に媚びる的なところがまるでないのが、ある種清々しくさえあるのだ。
 昔よくいた近所の頑固ジジイというか、ご意見番的な風格が漂う。

 例えば、これまでは「人は他者を前にして初めて自分の身体を含めた世界の広がりを確認してきた」のだが、コンピューターゲームにより、「自分に必要のない他者を意識的に消ることの出来る電子空間を得た」のだという。

 「そうして、今やゲーム世代の新しい個人は、他者の目を気にすることなく己の快楽や欲求を解き放っている。ただしかし、その成果は今のところ、たまに斬新ではあっても、往々にして生硬で、単純で、稚拙である。他者の目にさらされ、評価され、洗練されるという試練を受けない快楽は、せいぜい個人の日記の中に留めておくべき程度のクズだということが忘れられているためである。
 と手厳しい。
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